仏教と心理療法

仏教といえばお葬式や退屈な法事を思い出しますが、本来の仏教は人の正しい生き方を説いたものです。人には自然で正しい生き方があって、これに反する考え方や行動をとると、それを苦しみとして感ずるようになります。私たちは法律や人間関係の中で、相対的に正しさが決まると思っていますから、油断をすると正しい生き方からどんどん外れてゆきます。その苦しみが悩みやストレスとなって、それが心理障害、精神障害へと進行してゆきます。人の生き方というのは、その人の性格や考え方、それに基づく発言行動のすべてを指しますが、それと悩み苦しみの因果関係がわかりにくいのは、人の心を生命に付属した一生のものと考える唯物論に私たちが支配されているからです。人は輪廻する永遠の人格であると考えることができれば、長期的にその因果関係を解くことができるようになり、仏教が心理療法として、比類ない完璧なシステムであることがわかってきます。この仏教療法では、正しい心の理解と正しい生き方を通して、人の悩み、ストレス、心理障害、精神障害を改善してゆく根本的な療法として仏教を捉えてゆきます。ヒーリングやカウンセリングと異なる点は、刹那の苦しみを回避するのではなく、むしろ苦しみと真正面から向かい合いながら、根本的に苦しみの原因をなくしてゆくことにあります。こんにちのように心理学が発達して、人間の心にアプローチする概念が豊富になってくると、仏教は宗教としてだけでなく、心理学の延長として、誰でも理解できるようになってます。

自分とは何か?

この問いに療法としての仏教の鍵があります。人間は自分が食うために働き、自分を守るために争い、自分の安心のために財を所有します。その一方で何かに情熱を傾け、苦しむ人を助け、家族や自国のために、自らの命を犠牲にします。人間には自分のもの、自分のこと、自分さえという自分の個体に執着する自我の心と、それを超越する全体の心が並存しているのです。全体の心は静寂、不動、冷静で、私たちの認識や主体はここにありますが、自我が侵略者から個体を守ろうと動転するため、私たちは静寂な自己に気付くことなく、動転する自我を自分と思い込んでいます。私たちの主体は自由で積極的で責任にあふれ、叡智と思いやりに満ちています。一方自我は自他を識別して自分と外界を隔て、個体の目的がすべてであると思い込んで、主体の発現を抑圧します。そしてその両方の心を反映した結果が、私たちの個の無意識(阿頼耶識)に心の習慣として刷り込まれます。自分とは何か?と問われたとき、外面的にはこれらの心を統合した人間性を指しますが、不動不変の本当の自己は全体にあって、それを全面的に個の無意識に浸透させることが、私たち人間の目的であると考えられます。自分であると思い込んで後生大事にしている自我は実は自分ではなく、自己の主体を妨げているものであることを理解する必要があります。そしてその自我がさまざまな苦しみの原因となって私たちを悩ませています。


自我の功罪

自我は自然界にあって自分の生命を外敵から守り、また自分の行動を危険から守ろうとします。しかしながら一方で、自分の大切な主体を抑圧して、個の無意識に心のひずみを刷り込んでゆきます。自我の働きの1つに、自他を識別して外敵から自分を守ろうとする防衛心があります。防衛心は裏を返せば激しい攻撃心で、それは強い優越感と劣等感を個の無意識に刷り込んでゆきます。優越感は慢心や差別心となって人に苦しみを与えると同時に、その反動を受けて自分の劣等感も苦しみます。自我はまた小さな個体に収縮しようとして外部依存性を高め、他の助けなくして自分が成り立たなくなります。そのため他人を必要として他人に支配的となり、それが暴力となって争いや犯罪を生んでゆきます。自我はそのように相手の尊厳を否定しながら依存と分裂を繰り返します。自我は自分に執着して、際限のない欲望となり、満たされない欲望が苦しみを生み、それはまた犯罪となって社会を混乱させます。また執着心は人の脳力を抑えて、競争社会の中で相対的な苦しみを生んでゆきます。このように社会の混乱と人の悩みと苦しみをすべて作り上げているのが、自我の心です。

悩みとストレス

私たちは悩みやストレスを社会や他人など、自分の外部から受けていると思っています。しかしそれはまったく違います。私たちの自我は自他を識別しますが、私達の主体は自分と他人の区別がありません。私たちが飢餓に苦しむ人々を助けたり、社会福祉を大切なものと考えるのは、それが自分自身を救う行為に他ならないからです。私達の主体は他人を苦しめることによって自らも苦しみ、他人を助けることによって自らも救われます。人間倫理はこのような仕組みで働いています。ところが私達の自我は、自他を識別して自分に執着し、自分を守るために他人を攻撃し、自分を利するために他人を苦しめます。その行為は同時に自分の主体を傷つけ苦しめます。悩みやストレスは、こうした自我の行為に対する主体の悲痛な叫びなのです。私たちが人を傷つけたり人を救ったりする行為は、脳によって時間のインターバルが加えられます。私たちは人になした行為の反作用を、脈絡のない自分の回りの環境を通して受け取ることになります。それが因縁果報(いんねんかほう)つまり因果応報です。私たちは家族や社会から受ける悩みやストレスを通して自分の誤りを知らされ、幸福や幸運を通してその正しさを知らされます。相手や環境が悪いと感じるのは自我の錯覚で、それらの原因はすべて自分自身の内側にあります。

仏教療法の原理

それでは私達はどのようにしてこれらの悩みやストレスを克服することができるのでしょうか?それは自我による心のひずみを個の無意識から消し去って、真の自己である主体を全面的に個の無意識に刷り込むことによって得られます。悩みやストレスの要因を個の無意識からなくすることによって、平安と至福が全人格を支配します。個の無意識の中で私たちの主体が自我に勝利をすればよいのです。しかし無意識に刷り込まれた自我の習慣を改めるのはそうたやすいことではありません。正しい行動を何度も何度も繰り返して、その習慣を個の無意識に刷り込んでゆく必要があります。仏教ではそれを「行」と呼んで、布施、自戒、忍辱、精進、禅定、智慧の六波羅蜜を自らに課してゆきます。これらの行はあくまで無意識への刷り込みが目的ですから、行動としての行に効果を期待してはなりません。行はただ淡々と無目的で、単純な行動、言葉、思考を繰り返すのです。この仏教療法では、療法として行を捉え、日常生活の中でどのようにして自己改革を進めてゆくか、その考え方と方法を述べてゆきます。悩みを持った方はただ刹那さでそれを回避しようとします。しかしそれでは永遠に問題が解決することはありません。結果を求めても成果は得られないのです。心の変化は、ほんの少しづつ進行して、自分が知らないうちに自分の外側ににじみ出てきます。それは生涯を超えた永遠の人生の中で結実してゆきます。


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