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療法と行法
ここでは自己改革のための行法を仏教療法として捉え、日常生活の中でどのようにして自己改革を進めてゆくか、その考え方と方法を述べてゆきます。ここで注意しなければならないのは、行法としての行動は無意識への刷り込みが目的ですから、刹那さの回避方法として直接の成果を期待してはならないということです。成果は切実性と行の繰り返し数と自分の素質で決まります。刹那さは淡々と無目的で行を継続する忍耐力と切実さに変換されるべきです。生涯のライフワークとして行を続けてゆく必要があります。この仏教療法では、布施療法、自立療法、集中療法の3つを取り上げますが、その他にも仏教に持戒という大切な行法がありますので、最初に取り上げておきます。持戒の第1は自分に裏表があってはならないということです。相手によって自分の態度を変えたり、誰かが見ているときと見ていないときで態度が変わったり、人を欺いたり、ものを盗んではいけません。その根本には虚飾性がありますから、華美な服装や装飾品も慎むべきです。決して五感に惑わされない質実さを身につける必要があります。持戒の第2は食と性ですが、飽食美食を慎み、また夫婦以外の淫らな性を慎むことです。断食も有効ですから、専門家の指導を受けながらやってください。生命の欲望に支配されてはならないのです。持戒の第3は競ったり争ったりしてはならないことです。無駄な議論を慎み、裁判などの争いごとは努めて避けなければなりません。スポーツなども人と競って自分を誇るのではなく、自分自身の道であるべきです。 |
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布施療法
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布施とは
布施という言葉は「お寺にお布施をする」というように、お金を寄付する意味がありますが、広義にはあまねく人に尽くすところの心と言葉と行為の3つを意味します。それは決してお金や財を与えることではありません。「無財の七施」ではこのようなものが施しであると言っています。
○眼施(優しいまなざし)○和顔悦色施(微笑み、笑顔)○言辞施(優しい言葉)○身施(労働奉仕)
○心施(感謝する心)○牀座施(席を譲る、道を譲る)○房舎施(一宿一飯のくつろぎを提供する)
私たちの自我が自己中心の奪い合いであるため、全体の心である主体を私たちの無意識に浸透させるには、与え合いである布施を行として繰り返して、無意識に刷り込んでゆく必要があるのです。大乗仏教はこの考え方を発展させたものです。「情けは人のためならず。」布施は決して他人のために行うのではなく、自分自身の救済行為なのです。
日常の布施行
日常生活の中で人に尽くす方法は色々ありますが、一番身近な布施行為としては、仕事や社会生活を通して「自分はこの人に何ができるだろうか?」と問い続けることだと思います。そのためには相手が求めているものに対して常に敏感でなければなりません。常に相手に興味を持ち、相手の立場で自分が感じ、考えるような習慣を身につけることが大切です。そして自分を犠牲にして、見かえりを求めることなく相手の求めるものを与えてゆくことが布施になります。それは相手を認めてあげる一言であったり、黙って相手の傍にいてあげることであったり、手を貸してあげることであったりします。お金や品物である必要は全くありません。ここで陥りやすい誤りとしては、相手の利己的な要求や、間違った行為を手助けしてしまうことです。相手の過ちに応じることは、長い意味で決して相手のためになりません。相手に尽くすということは、決して協調することではないのです。協調する心は自分の利益を守ろうとする、きわめて利己的な心です。相手に尽くすということは、そのまま全体に尽くすことでなければなりません。日常以外に布施の場を求めるのであれば、ボランティアなど無償の奉仕活動に参加することです。それも老人介護や体の不自由な方のお手伝いのように直接相手に接する仕事が良いでしょう。その中で、自分を犠牲にする行と、相手への共感性を高めるトレーニングを繰り返してゆけば良いのです。ここで注意することは、ボランティアの行為自体には何の意味もないということです。ボランティア参加者の中にはさも気高い行為をしているかのように錯覚して、おごり高ぶっている人がいますが、そういうのを見てボランティアに疑問を感じる人もたくさんいるようです。目的はボランティアを通して、自分の心に無私の習慣を身につけることであり、かの人たちは逆のことをしているに過ぎません。相手に尽くすことが心の習慣になると、通りすがりの人に道を譲り、通りすがりの子供達の安全に心配りをするような思いやりのある人になります。それがそのまま自分の救いになります。
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自立療法
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依存と自立
自我が主体の広がりを抑えると、私たちは自分の足りない心を自分の外に求めるようになります。私たちが感じる寂しさや、何かを所有したいという欲望や、人より優れたいという競争心は、そのような心の貧しさによって起こります。それらの欲求は自分の外にある人や物や条件を求め、得られても得られても止むことなく、際限のない欲求を繰り返します。私たちはこのように求める心によって、求めるものに依存する(頼る)ようになります。私たちは寂しいから、にぎやかな場所を求め、自分の傍にいてくれる人を求めて、それが満たされないことが苦しみになります。私たちは自分を認めてもらいたいと思っているから、無視されたり、自分が相対的に優位に立てないことが苦しみになります。私たちは人と競って贅沢な生活をしようと思うから、欲しいものを得られないことが苦しみになります。夫婦は相手が自分の思うようになって欲しいと期待するから、うまくゆかなくなります。人の苦しみはこのように、相手や環境に求めているものが満たされないことによって起こります。依存性は普段心の中に潜在していますが、それがエスカレートすると、満ち足りない不平や不満となって外面に表れてきます。不平不満は家族や周りの人たちに対する押し付けとなり、それは罵声や暴力にエスカレートしてゆきます。満ち足りない心はまた、際限なくものを収集したり、お酒やギャンブルを繰り返して、経済的、身体的な破綻を招くようになります。また偏った特異な思考や行動などの嗜癖[しへき]を持つようになります。世界を不幸に陥れている戦争は、この依存性が集団化したものです。私達の主体が無意識に浸透して自我の影響がなくなってくると、この依存性に代わって、自立性が性格に現れてきます。自立性は環境(自分の外)に依存することなく、自分の中にすべての原動力を持とうとする性質です。自立した人は主体的で責任感にあふれ、どのような問題も自分が原因であると考えて、人のせいにすることがありません。また孤独に耐えて、他人の賞賛や同意に関わりなく自分の態度を決めることができます。何者にも動じない不動不屈の心はこの自立性によって実現します。
感謝行
このような自分の外に何かを求める心の習慣は、自分の心を豊かにすることによってなくしてゆくことができます。それには第一に感謝する習慣を身につけることです。感謝する習慣によって満ち足りた心になれば、自分の外に何かを求める必要がなくなります。お金や物を集めたところで、人の欲望には際限がなく、青い鳥のように、自分の外に幸せを求めてもどこにも幸せはないからです。どのような不遇にあっても満ち足りた心が幸せであり、どのように恵まれた境遇にあっても満ち足りない心が不幸なのです。私たちが毎日食べる一杯のご飯は、農家が丹精を込めて作ったお米ですが、それだけではありません。農家で使うトラクターは世界の鉄で作られ、世界の石油で動いています。更に世界の人たちは日本の工業製品を使って仕事をし、心を癒しています。一杯のご飯のルーツをたどってゆくと、世界中何十億の人たちのお世話になっていることが判ってきます。しかもあらゆる食べ物は、生き続けたいと抵抗する生命を人間が奪ったものばかりです。私たちはそのことに感謝し、何不自由なくご飯を食べられることに感謝すべきなのです。一杯のご飯にすばらしい幸せがあります。私たちは学校へ行くと、友達から無視されるとか仲間はずれになるとかいって悩みます。どこかのサイトで見かけたのですが、貧しい国で病気で死んでゆくある子供の言い残した言葉が「一度学校へ行ってみたかった」だったそうです。学校へ行って大勢の友達に恵まれると、友達と一緒にいられることのありがたさを忘れて、あの人が好きだ嫌いだといって満ち足りない心を募らせてしまいます。毎日1人1人の友達に感謝してみてください。そこにすばらしい幸せがあります。隣近所もそうです。山の中で一人でキャンプをしてみたらわかります。寄り添って住むことのありがたさが。毎日隣人に感謝してみてください。そこにすばらしい幸せがあります。家族が一緒に住めることのありがたさを考えてみてください。家庭は自己犠牲と全面的理解と、思いやりの天国です。毎日家族に感謝してください。そこにすばらしい幸せがあります。感謝は人の心に感動をもたらします。この感動する心が満ち足りた心となり、人に至福感(幸せ)をもたらします。そのような心は自分の外に何かを求めることがありません。
日常の自立行
自立は相手や環境に何も求めないことですから、自立性を高めてゆくには、どんなことでも人や環境のせいにしないで、自分の中に原因を見出してゆく習慣を身につけることです。私たちは相手や環境から苦しみを受けていると思っていますが、相手というのは鏡に映っている自分の姿なのです。たとえばとても傷つきやすい人がいて、自分を苦しめる相手をうらんでいる場合、相手の攻撃性を自分の中に見出して、自分の加害性に気付くことによって自分が傷ついている原因を知ることができます。そして、自分の加害性をなくすることによって傷つかない自分に変わることができます。たとえば夫婦がうまくゆかないのは、相手に何かを求め、相手に期待しているからです。相手に変化を求めるのではなくて、自分自身が変われば相手も変わります。相手に求めるのではなく、まず自分自身に求めるべきなのです。そのように相手に何も期待しないで、自分自身にすべての原因を見出してゆくことを繰り返して、それを自分の習慣にしてください。もう1つは日常のどんなことでも、人を頼らずに自分でやる習慣を身につけることです。もちろん人に頼まざるを得ないことはありますが、それを自分でやっていると思って、人がやる過程や結果に自分が責任を取れることが大切です。決して自分の主体性を放棄せず、自分が頼んだ人を心の中で操っていなければなりません。日常以外に自立性を身につける訓練として、一人旅や一人登山があります。危険なのであまりお勧めできないのですが、見知らぬ初めての山の、一人登山を繰り返してみて下さい。時には道に迷ったり、転落しかけたり、野生の動物に出会ったりしながら、自分の力だけでこれを乗り超えてゆきます。このことによって自立性と創造性(智慧)を身につけることができます。私たちは電気や水道や交通や情報や、あらゆるものに頼って生きています。ですから、ときどき人間の原点ともいうべき最小限の生活を試みて、依存の習慣を断ち切っておくことも有効です。端整にして何も持たず、テレビも新聞もない山寺の静寂の中に一人端座する。そんなことを2〜3日繰り返しても良いと思います。自然のキャンプ生活も良いと思います。そのような生活の原点を確認することで、私たちは移り変わる環境にあっても自分自身を失わずにいることができるようになります。
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集中療法
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瞑想
私たちは普段社会の喧騒の中で暮らしています。自分の世界は、社会との関わりの中で、すべてが相対的に成り立っていると錯覚しています。そして相対分別の渦の中で自分自身を見失って、さまざまな悩み苦しみを作り上げています。その自分自身と向かい合って、自分の主体である不動の自己を見出そうとするのが瞑想です。仏教では瞑想は大きく分けて座禅と密教観法があります。座禅には曹洞禅と臨済禅がありますが、初心者はそのどれでも良いと思います。いずれも指導者につく必要があります。瞑想ではまず身体の姿勢を整え、次に呼吸を整え、そして心を整えてゆきます。具体的な瞑想の方法はこれ以上ここでは述べません。瞑想の意味はたくさんありますが、簡単なところからまず、一人自分に向かい合うので自立心を養います。同じ姿勢で静止することによって、静の忍耐力を養います。思考の制御ができるようになりますから、思考の暴走による不眠や、マイナス思考などの偏った思考習慣を正すことができるようになります。また感情の暴走をコントロールできるようになります。社会に翻弄されて失われた自分自身も、取り戻せるようになります。瞑想はさらに集中力を高めますから、頭の切り替え、回転が速くなり、記憶力、創造力(応用力)が高くなります。このように瞑想は、人間の頭をよくするための脳力開発手法として位置付けられます。更に仏教では、瞑想は人間完成としての解脱、覚りに至る成仏法としても位置付けられるわけです。ここでは目的として瞑想の効果をうたいましたが、決して効果を期待してはなりません。心の変化は行動とは無関係だからです。ただ無目的で淡々と瞑想を繰り返す必要があります。ライフワークとして、時々指導を受けながら、短時間でも毎日繰り返すのがよいと思います。
日常の集中行
このように改まって瞑想するだけでなく、仕事や上述の行法の中でも集中力の訓練をすることはできます。例えば布施行の中に、相手に興味を持ち、相手の立場で自分が感じ、考えるような習慣とありますが、それは相手の表情、服装、相手の考え方、言葉、行動、相手の趣味、家族構成、相手の・・・、相手の・・・、というように相手だけに自分の興味を集中して、自意識に興味が向かないように訓練します。相手と会話をするときは、自分が相手になりきると同時に、相手の中に自分が入って、相手の中で感じ、考えながら会話できるようになるlことが大切です。それらが自分の心の習慣になるまで意識して相手に興味を向けます。同じような訓練に、演劇や人形劇の役者があります。自分の役に熟達することによって、自分の興味を自意識の外に向かわせることができます。ロールプレイイングやシュミレーションゲームで、ゲームの主人公に感情移入することも同じような効果があります。集中の訓練は仕事やスポーツで何かの道具を使用するとき、道具に熟達することによっても可能です。自分が道具や目的になりきるのです。たとえばテニスをする人は自分がラケットを持ってボールを打つのではなく、自分がラケットになりきり、更に自分がボールになりきることによって熟達してゆきます。剣道が何故「道」なのかは、その熟達が自分を無にすることによって為されるからです。自分が剣を持って切るのではなく、自分が剣そのものになる、あるいは宮本武蔵は五輪書で「剣の極意は自分が斬ることになる」と語っています。釣り人は釣り糸の先の餌になりきり、音楽を奏でる人は音楽になりきり、マラソンランナーは走ることになりきることが熟達の道であり、それが自我をなくして全体性を高めることにも結びつきます。このようにスポーツや職業や趣味の熟達を通して、至るところで集中の訓練は可能です。
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